つるちゃんからの手紙 平成27年10月号

K大学付属病院歯科口腔外科は卒後研修が終わって就職した病院です。

そこでボクは多忙な毎日を送ることになるのです。

 

朝は7時半から病棟で回診、9時から外来。気が付けば14時。昼食を急いでとって小手術、そしてまた病棟。手術の時は朝からずっと手術室に入り、気が付けば日が変わっていたこともよくありました。

 

もちろん、まだ経験が浅いわけなので、執刀できるレベルではありません、主にアシスト(鈎持ち)で入るのです。

 

休みも出てきて回診や当直医のお手伝い。

若かったので、ちっとも疲れませんでしたし大変とも思いませんでした。

 

こんなことがありました。卒後3年目の出来事でした。

この時はある程度仕事を覚え、ボクはちょっと生意気になっていたのかもしれません。

 

ある日、教授は、ボクに難しい症例の患者さんを配当してくださいました。

 

大学病院では大体新患担当医が症例を診て、それをちゃんと治せる経験をもったドクターに患者さんを配当するのです。

 

私は、戸惑いました。

 

その患者さんはYさんといいます。
73歳女性。
ご家族はおらず、郷里が私と同じ長崎でした。

 

カンファレンスが終わり、ある程度の治療方針が決まりました。

しかし、ボクはYさんの病状の進行があまりにも早かったので、これはすぐに手術をしないといけないと思い、教授に相談し日程を確保し、執刀をお願いしました。

 

中央手術部に行くと、案の定というか当たり前ですが・・・・すぐに手術ができるわけではありません。予定手術はびっしり、来週まで埋まっています。

 

ボクは中央手術部の責任者に、その患者さんの病状を告げ、無理にお願いしました。

 

すると、「耳鼻科の手術がこの日だったら早くおわるかもしれないから、その後だったら・・・」と言っていただきました。

 

予定開始時間をみたら16時。10時間かかる手術の開始時間としたら遅かったのですが、ボクはすぐに手術申込書を提出し、教授へ報告しました。

 

教授は嫌な顔ひとつされずに承諾していただきました。

かなり難しい手術でしたが、うまくいきました。

手術が終わったのは深夜2時を回ったところでした。

 

教授の執刀はパーフェクトでした。

 

術後はICUで数日間管理していただき、その患者さんは順調に回復しました。

一般病棟に帰った時、とてもうれしそうでした。

 

その後も他科の協力を得て、その患者さんは他の病院へ転院し、1年近くの闘病生活をおくり、比較的に元気になられました。

 

そんな折、ボクは大学病院を辞めることになりました。

 

最後に調べた検査ではその重い病気の再発は認められませんでした。

「現段階では治っている!」ボクはとてもうれしくなり、Yさんへ報告しました。

Yさんは小さな痩せた手で、ボクの手をぎゅーっと握って涙をたくさんこぼしてくれました。

 

でも、その患者さんが泣いていたのは自分の病気の再発がなかったことではなく、ボクがいなくなることが悲しくて泣いていたのだそうです。

 

Yさんは転院されたとき、その病院の主治医の先生に何度も、こう言ったそうです。

 

「私が今、ここにいるのはあの先生のおかげなんです。あの先生が私をすぐに手術してくれて、1週間、一睡もしないで私に付き添ってくれた。だから私はつらい治療に耐えることができた。そして今、元気になれたのです」。

 

それを担当の看護師さんから聴いたのが、ボクの送別会の時。

すぐに教授に報告し、お礼を言いました。

 

すると教授は静かな声で、ボクにこう言いました。

 

「鶴田君、病気はね、患者さんが治すものだよ。私たちはそれを手助けしたにしか過ぎない。だから、どんな時も患者さんには必ず誠意をもって接してほしい。すると、何かが伝わる。君はその何かを決して忘れてはいけないよ。」

 

ボクはその後、佐賀の地方の歯科医院の分院長へと赴任するわけですが、どんなに大変な時もその言葉を思い出し、頑張り続けることができました。

 

教授がおっしゃった、その何かというのは「謙虚さ」「真摯さ」「信念」ということだったのです。

 

当時のボクはまだまだ生意気盛りの未熟な人間でした。

きっと、教授は私に人として、歯科医師として必要なことを、あえて教えて頂いたのだと思っています。